神戸市が売却意向の王子公園の土地について歴史的な背景を検証する(2)

神戸市が関西学院大学に売却を予定している王子公園の土地の歴史的な経緯について、前回の記事を振り返りつつ関学資料が明らかにしている明治期における土地購入の経緯、そして前回記事では触れていない「関学」移転後、王子公園が誕生するまでの経緯について検証する。

氏神を祀る神社の領地だった

王子神社境内に建つ「元原田神社」碑=神戸市灘区原田通

前回記事で記したように王子公園一帯はかつて原田の森と呼ばれていた。原田の森とは原田神社(明治期より建御名方尊神社、戦後に王子神社と改称)の神域の松林を指し、原田神社はこの地域の氏神を祀っていた。江戸期には原田村として尼崎藩に属し、戸数60戸の小さな村で多くは農業を営んでいた。明治期以降、他の村と合併して都賀野村となり、さらに西灘村と改称され、1929(昭和4)年に神戸市に編入されて神戸市となった。

神戸市に編入されるまで原田神社(明治期より建御名方尊神社、戦後に王子神社と改称)は村社であった。その由緒によると元久元年(1204)年に約1万3000坪(約4万3000平方メートル)を境内地として御社(みやしろ)を建立したが、明治6(1873)年8月に3000坪(約9900平方メートル)を境内地とし、残り約1万坪(約3万3000平方メートル)を上知した。明治政府は明治4(1871)年と明治8(1875)年に寺社に対して上知令を出しているので、明治6(1873)年に上知したとする由緒の記述と合致する。また、古来より原田神社と呼ばれていたが、明治期に上知した際に建御名方尊神社と改められたようである。

1万坪を兵庫の酒造家から購入した

一方、上海生まれのアメリカ南メソヂスト監督教会の宣教師、ウォルター・ラッセン・ランバス(W・R・ランバス)は明治19(1886)年に神戸外国人居留地内に読書館を開設し日本での布教を開始した。そして2年後の明治21(1888)年には香港上海銀行から貸付を受けるなどして現在の王子公園の一角の土地1万坪を1万円で購入し、関西学院大学の前身となる南メソヂスト監督教会を母体とするミッションスクールを開学した。この1万坪の土地取得の経緯について、原田神社の土地約1万坪が明治6(1873)年に上知されたとみられることから、前回記事では教会が明治政府と交渉して取得した可能性について触れたが、関西学院側の資料によるとそういうことではないようだ。

宣教師の父親、J・W・ランバスとともに来日したW・R・ランバスは明治19(1886)年に神戸外国人居留地内に読書館を開設して日本での布教を開始するとともに学校の設立を目指していた。そんな時、神戸多聞教会の雨夜孝太郎氏から話しがあったという。「関西学院史:開校四十年記念」(昭和4年、関西学院史編纂委員編)は以下のように記している。

その頃、神戸多聞教会の会員、雨夜孝太郎氏、莵原郡都賀野村の内原田村字王子免なる面積約一萬坪の土地を売らんとするものある由を語られしかば、ランパス総理並びに南メソヂスト神戸教会の関係者等、現地に赴きて之を検し、遂に該地域を将来の関西学院を建設すべき土地として、坪当たり一円を以て買収する事となりぬ

神戸多聞教会は明治10(1877)年に設立されたキリスト教会で、雨夜氏は同教会の会員で、J・W・ランバスが神戸外国人居留地内で開設した夜間英語学校に生徒として通っていたことから息子のW・R・ランバスらと交流があった。原田の土地を売ろうとしている者があるとの話を雨夜氏から聞いたW・R・ランバスらは現地に赴いて下見し、学校建設用地として坪当たり1円で購入することになったというのであるが、「関西学院史:開校四十年記念」によれば、本来、坪当たり50銭程度の土地を1円の高値で購入したという。売主はさらに高い値を要求したが、原田村の戸長らの斡旋により坪1円で辛うじて購入に至った。

「関西学院史:開校四十年記念」には土地を売った者についての記述はないのだが、「関西学院史紀要」(井上琢智著、2003年3月24日発行)に収録されている「吉岡美国と敬神愛人(4)」には購入した土地について次のように書かれている。

此処は元来摩耶山の直下で多数の筆数の米田、菜畑を兵庫の酒造家が値売りを目的に一纏めにして所有していたものであった(16ページ)

これは「1930年6月25日『関西学院新聞』移転一周年記念号(付録)」に掲載されている吉岡美国名誉院長の「四十余年の昔と私の学院追想」の中の一文のようであるが、兵庫の酒造家が売ることを目的に所有していた土地だとしている。原田神社が約1万坪を上知したとするのが明治6(1873)年、学校用地として1万坪の土地購入の売買契約が成立したのは明治21(1888)年(関西学院史:開校四十年記念)であるので、上知から15年後にW・R・ランバスらが兵庫の酒造家から購入したということになる。ちなみにこの土地の所在について「関西学院史:開校四十年記念」は原田村字王子免と記している。免とは免の旧字で、Wikipediaの王子町(神戸市)によると、免とは寺社領のために年貢が免除されている土地であることを意味しているという。つまりランバスらが購入した土地、王子免はかつて寺社領だった土地、つまり原田神社の土地であった。

「関学」跡地を管理していた神戸土地興業株式会社

ランバスらが明治期に購入したかつて原田神社の領地だった土地周辺=神戸市灘区王子町

関西学院大学の前身となる南メソヂスト監督教会を母体とするミッションスクールは、原田神社の領地だった土地を購入して開学し、その後、私立大学としての認可を得たのは上ケ原に移転後であった。そもそも上ケ原移転は私立大学としての認可を得るためでもあった。その際、原田の土地を320万円で売却し、上ケ原の土地7万坪を55万円で購入する売買契約が阪急との間で成立、差額の265万円を上ケ原キャンパスの建設費にあてたことを前回の記事に記した。昭和2(1927)年に上ヶ原への移転が決定し原田の土地は阪急に320万円で売却されたわけだが、それ以降、昭和25(1950)年に今日の王子公園としての供用が開始されるまでこの土地はどのような変遷を辿ったのだろうか?

原田から上ケ原への学校移転決定から3年後の昭和5(1930)年9月に神戸では観艦式記念海港博覧会が開催されている。これは当時、海軍が神戸沖で挙行した特別大演習観艦式に合わせて開催された博覧会で、神戸港の海外貿易のPRという目的もあったようである。この博覧会は神戸博覧会協会が主催して行われ、会場として使われたのが兵庫突堤埋立地と湊川公園、そして原田の土地であった。神戸博覧会協会が昭和6(1931)年に出版した「海港博覧会誌:観艦式記念」には原田の土地が会場となった経緯について次のように記している。

第三会場の敷地選定に就いては市の東部と西部の間に猛烈なる競争的運動が起り、東部に於いては旧関西学院をそれに充てむことを陳情し、西部に於いては須磨公園を以て適当なる場所となし為に理事者の間に於ても其の選定に少なからぬ考慮を拂ひ結局旧関西学院跡の建物を利用することとなり(第四章会場、100ページ)

第三会場をめぐり、市の東部と西部で関西学院跡地の原田の土地か、須磨公園かをめぐり誘致合戦のようなものがあり、最終的に関西学院跡の建物を利用することで原田の土地を第三会場にすることに決まったということであるので、土地だけでなく学校の建物も残したまま売却されていたことがわかる。また、同誌には第三会場について次のような記述もある。

空気清浄、樹木生い茂り、夏は緑滴る許り、観光館、記念館、美術館等を配置するの場所として好適の地と云わねばならない。此處を神戸土地興業株式会社と交渉の結果無償にて借受け旧学院高等部の校舎を全部使用することとした(第四章会場、102ページ)

原田の土地を会場として使うにあたり神戸土地興業株式会社と交渉して無償で借り受けることになったというのだ。神戸博覧会協会が原田の土地を借り受けるに当たり交渉した神戸土地興業株式会社とはどのような会社なのだろうか?「阪急不動産10年史」(1964年、阪急不動産10年史編纂委員会編) によると、神戸土地興業株式会社は昭和4(1929)年5月17日に当時の阪神急行電鉄株式会社の全額出資により資本金350万円をもって設立された土地・建物の経営、売買、賃貸等を目的とした会社で、昭和4(1929)年5月に阪神急行電鉄株式会社から神戸市原田、旧関西学院の土地・建物を譲り受けて賃貸業務を行うようになったという。つまり原田の土地や建物の管理会社として阪急が設立した会社だということだ。しかし、原田の土地については「社会情勢の推移に対処し、昭和15年2月および16年9月に同土地・建物を売却するにいたった」と「阪急不動産10年史」は記している。売却先は明記しておらず、売却の理由も社会情勢の推移とのみ記しているだけである。

原田の土地・建物を売却した神戸土地興業株式会社は昭和15(1940)年2月に仁川五ヶ山の土地、同年7月に大阪市北区小深町の土地を購入して経営を継続したが、昭和27(1952)年9月に阪急不動産株式会社が設立されたことで同社に吸収合併されている。阪急は320万円で買い取った原田の土地を、管理会社を設立して管理していたが、昭和15(1940)年と昭和16(1941)年の2回に分けて売却、売却理由は「社会情勢の推移に対処」するためであった。

「関学跡地」から防空緑地「王子公園」に

防空法は昭和12(1937)年に公布・施行された法律で、戦時に航空機の来襲に伴う空襲の危害を防止し被害を軽減することを目的に制定されたという。太平洋戦争が開戦したのは昭和16(1941)年12月、大陸で日中戦争が勃発し時局の厳しさが増している時であった。「新修神戸市史 行政編Ⅱ」(平成17年3月31日発行)によると、昭和14(1939)年度からは緑地公園として防空緑地の設置が決定され、昭和17(1942)年10月には大都市防衛強化策として防空法による防空空地の設置が決定された。神戸市では昭和14(1939)年7月の市議会に都市計画事業として外浜町(須磨区)、会下山町(兵庫区)、王子町(灘区)の三カ所に緑地公園を新設する案が上程されたが、提案理由は「政府の通牒に基づきまして施行の必要がある」との説明だったようだ。時局の急迫により空襲などを受けた際に避難する場所として防空緑地の設置を政府から求められての提案であったが、市は時局を説明することに苦慮し、政府要請にもとづくとの説明で都市計画事業として公園の設置を決め、その1つが王子町つまり原田の土地であった。

神戸土地興業株式会社は昭和15年2月に管理していた原田の土地を「社会情勢への対処」のために売却、同3月には防空緑地としての王子公園(6・04ヘクタール)が完成している。戦時下の空襲から市民の命を守る防空緑地として活用を図るため原田の土地は市の所有となった。そして戦後は市の公園として整備され、諏訪山動物園が移転して王子動物園となり今日の王子公園に至っている。その間、平成7(1995)年1月7日に発生した阪神・淡路大震災では災害活動の拠点としての役割を果たした。

こうして見てくると長い歴史の中で今日の王子公園の土地がいかに地域と深く結びついてきたかがわかる。また、この土地は命と深く結びついているように感じられる。明治期から昭和にかけての一時期、上海から日本に渡ったアメリカ人宣教師らにより日本への布教を目的とした学校の土地として使われたが、彼らが去ると戦時下の人々の命を守る緑地公園となり、戦後は人々が集い憩う公園として整備された。一方、アメリカ人宣教師らによって創られた学校は移転した上ケ原で私立大学となり、戦後、関西を代表する大学になった。今日、関西学院は発祥の地を主張する王子公園の土地を再び取得しようとしている。そして神戸市の久元喜造市長は公園の再整備計画の名のもと、関西学院に呼応しているかのような計画を進めているのが王子公園の土地をめぐる昨今の動向である。

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