北海道北端の島、礼文島。この島の北部の海岸と久種湖(くしゅこ)の間にある船泊(ふなどまり)遺跡は今から3800年~3500年前、縄文時代後期の集落跡の遺跡だ。この遺跡からは貝の装飾がほどこされた屈葬された人骨が数多く出土している。国立遺伝学研究所の西村瑠佳さん(総研大遺伝学専攻大学院生)と井ノ上逸朗教授らの研究グループは、この人骨の歯髄のDNAデータから古代のウイルスのゲノム配列を明らかにすることに成功した。船泊の集落で暮らしていた古代人にはどのようなウイルスが生息していたのだろうか?
口腔内ウイルスの祖先型ウイルス
船泊遺跡の人骨の歯髄DNAデータのゲノム解析から明らかになったウイルスについて井ノ上教授は「現代のヒトの口腔内にあるウイルスの祖先型だと考えられる」と説明する。ウイルスというと新型コロナウイルス感染症を引き起こしているSARS-CoV-2のような病原性ウイルスを連想しがちだが、実際には人の体には害を及ぼさない多くのウイルスが存在している。Siphovirus contig89 (CT89)というウイルスは現代人の口腔内に生息して、細菌などに感染するファージと呼ばれるタイプだ。西村さんと井ノ上教授らは、船泊遺跡から出土した人骨の歯髄に含まれるすべてのDNAの塩基配列を次世代シーケンサーという先端機器を使って決定し、その中から現代のウイルスと類似の塩基配列を持つゲノム配列を探したところ11種類のウイルスのゲノム配列を発見、うちCT89の祖先型と考えられるウイルスについては完全なゲノム配列を特定することに成功した。
井ノ上教授によると現代人の口腔にあるCT89のゲノム配列は47種類あり、2つの系統に分かれている。しかし、船泊遺跡の人骨から見つかったウイルスのゲノム配列は、現代のCT89の2つの系統には属さず、また、どちらか一方の系統に近いゲノム配列でもなく、2つの系統の中間に位置しているという。「今回、見つかったウイルスは今につながっているウイルスだということが結論から言うと見えてきたのです。今いるウイルスの祖先になっていることをきちんと示すことができた。それは当たり前だと思われるかもしれないけれど、それをきちんと示せた意味は大きい」と井ノ上教授は話した。
古代人が何を食べていたのかもわかる?!
船泊遺跡の人骨については、男女2人の大臼歯からDNAを抽出して全ゲノムを分析する試みが国立科学博物館や国立遺伝学研究所など国内7研究機関11人の研究者によって行われ、その結果、女性人骨から全ゲノムを高精度で決定することに成功、解析が行われて2019年5月に公表された経緯がある。古代人のゲノム解析は人骨のDNAの保存状態に左右されることから精度の高い解析を行うことが難しいという。しかし、船泊遺跡の人骨は保存状態が良好だったことから現代人のゲノム解析と同等の精度の高いゲノム解析を行うことができたのだ。日本人のゲノムは2010年に初めて全ゲノムが解析されており、船泊遺跡の人骨から初めて高精度の古代人の全ゲノムを解析することができたことから、現代人のヒトゲノムと比較することで起源の解明につながるのではないかと期待されている。
一方、今回、西村さんと井ノ上教授らが取り組んだのはヒトゲノムではなくウイルスのゲノム。古代人の人骨から採取されたDNAにはヒトのDNAだけでなく細菌やウイルスのDNAも含まれているため、古代人骨のDNAを分析すれば古代人がどのようなウイルスや細菌に感染していたのかゲノム解析から明らかにすることができるのだという。しかし、この分野の研究はこれまでほとんど行われていなかった。西村さんと井ノ上教授らのグループが初めて取り組み、古代ウイルスのゲノム配列が完全な形で明らかになったのだ。「口の中にはバクテリアや細菌がいます。腸内細菌と同じですが、食生活と無関係ではないのですね。縄文人の食生活はヒトゲノムからはわからない。バクテリアとか、今回はバクテリアに感染しているウイルスですけど、そうしたものを見ると、どういう食生活をしていたのかも、もしかしたらわかるのではないかということで始めたのです」と井ノ上教授は研究の動機を語っている。
糞石から古代人の腸内ウイルスを探る
「ウイルスの起源がまったくわかってなくて、それを知るにはウイルスの進化を明らかにする必要があります。その1つの手段として現代のウイルスと古代のウイルスを比較して進化の軌跡を明らかにすることでウイルスの起源に迫ることができるのではないか」と話す西村さん。西村さんは研究者を養成する国立の大学院、総合研究大学院大学の生命科学研究科遺伝学専攻に在籍していて井ノ上教授のもとで研究を行っている。もともと大腸菌の遺伝子組み換えの研究などを行っていたが、ゲノムデータの解析に興味があり井ノ上教授の研究室に進学して1年前から今回の研究に取り組むようになった。
「今回はCT89の発見が主な結果でしたが今後は他の古代のウイルスを見つけていくことや、古代のウイルスだけにフォーカスするのではなくて、現代のウイルスを調べることでも進化が明らかにできるのではないかと思います」と西村さんは言う。そして新たに注目しているのが排泄物の化石である糞石だ。縄文時代の遺跡からは当時、そこで暮らしていた人たちが排泄した糞便の化石が見つかっている。「糞石の中には生前、腸内に存在していたウイルスが含まれているのではないかと考えられています。糞石を調べることによって古代人の腸内にあったウイルスがどのようなものかわかる可能性があります」と西村さん。糞石の中のウイルスをゲノム解析で探究する取り組みをすでに始めているという。
DNAの遺伝情報であるゲノム。そのゲノムを解析することでこれまで未知とされていたことが解明される可能性があることから今日、さまざまなゲノム解析の研究が行われている。古代人に感染していたウイルスの解明は今、まさに始まったばかりだが、データを積み重ねて研究が進めばウイルスの進化の解明、さらに古代人の実態に迫り歴史や考古学の進展につながることも期待される。研究のさらなる成果に注目したい。
■研究者プロフィール
【井ノ上逸朗(いのうえ・いつろう)】鹿児島大学医学部卒、鹿児島大学大学院にて生化学で学位取得。徳島大学酵素化学研究所を経て、米国ユタ大学医学部生化学へポストドクとして留学。その後、ユタ大学ハワードヒューズ医学研究所の研究員として遺伝学を学ぶ。帰国後は群馬大学生体調節研究所の助教授、東京大学医科学研究所客員助教授を経て、東海大医学部教授。2010年から現職の国立遺伝学研究所人類遺伝教授。
【西村瑠佳(にしむら・るか)】北海道生まれ。北海道大学理学部生物科学科卒業。現在、総合研究大学院大学生命科学研究科遺伝学専攻に在籍し、国立遺伝学研究所にて研究を行なっている。井ノ上教授とのディスカッションの中で、未知の事柄で溢れているウイルスやその進化過程に興味を持ち始め、古代ウイルスの研究に取り組んでいる。
■参考