知られざるチベット英雄叙事詩「ケサル大王伝」を追う


【大谷寿一・おおたにとしかず】東京都生まれ。ドキュメンタリー映像作家。1973年、日本映像記録センター入社。TV番組『すばらしい世界旅行』などでアフリカ各地を取材後、フリーディレクターとして『地球浪漫』『新世界紀行』『報道特集』(TBS)、『ハイビジョン・スペシャル』(NHK)などで「大地と人間」をテーマに制作。2006年より東チベットでの取材を開始し、2012年、自主製作ドキュメンタリー映画『チベット天空の英雄 ケサル大王』を作品化。2014年には『天空の大巡礼を行く』を完成。上映情報はサイト(http://www.gesar.jp/)にて。


現在のチベットは、インド北西部ダラムサラを拠点とする亡命政権「中央チベット政権」と、中国政府の監視下にあるチベット自治区、中国・青海省、四川省地域における東チベットと呼ばれる3つの「地域」に分断されている。中でも、もっとも中国化している東チベット地域において、千年前誕生し、今なお語り継がれている世界最長のチベット英雄叙事詩があるという。ケサル大王伝―日本ではほとんど知られていない英雄叙事詩を追って2006年以来、東チベットで取材活動を続けているドキュメンタリー映像作家の大谷寿一氏に話しを聞いた。

――「チベット天空の英雄 ケサル大王」というドキュメンタリー映画を拝見しました。

大谷寿一氏 この映画は、2006年から2010年までの5年間、東チベットを取材して撮影した記録を作品としてまとめたものです。私がケサルのことを知ったのは2004年です。チベットに世界最長の英雄叙事詩があると聞いたのですね。そんな話しは聞いたことがなかったし、ウィキペディアで調べてもその頃は何も出てきませんでした。

――中央アジアの英雄というとチンギス・ハンを思い浮かべます。ケサル大王は叙事詩の主人公ということですけど、映画で初めて存在を知りました。

大谷氏 日本では1988年、君島久子さんという中国文学専門の方が翻訳され「世界の英雄伝説」(筑摩書房)の第一回として出版されています。しかし原本が中国語版、全体の一部、しかも翻訳は少年向けです。また、長い歴史のある日本チベット学会ですが「ケサル大王伝」について正面から記した論文はありません。現地に行けば何かあるのだろうかと思い、ともかく行ってみようということで始めました。

――以来、ケサル大王を追っているわけですね。

大谷氏 ちょうどケサル生誕千年記念第2回大会というのが開かれるという話を聞きつけ、2004年に最初に行ったのが東チベットの中でもはずれになる、甘粛省の黄河に沿った草原の街でした。そこで初めてチベット、ケサル文化と接触しました。2006年、東チベットの伝統文化の中心といわれる四川省デルゲで第3回大会が開かれるという情報を得て、取材体制を整えて現地に向かいました。ところが、まったく祭りの雰囲気が感じられないんです。聞いたら「金がないからやめたんだよ」と言われ(笑)。

――おやおや。

大谷氏 でも、街には文化大革命の嵐から守られたケサルの古いタンカ(絵画)が寺に、そして経典印刷所にはケサルの版木がありました。力強く、勇ましく、美しい表現に魅せられました。それがきっかけとなり、広大な四川、青海の標高3000mから4000mの高原を毎年、2週間の観光ビザでピンポイント取材することになりました。

統一王朝を願う庶民の夢?

――そうして作品化されたのが「チベット天空の英雄 ケサル大王」ですね。

大谷氏 ケサル大王の物語には、チベットの古来の文化や知恵、社会や歴史といった仏教渡来以前の世界観が含まれているのです。チベットには7世紀、ソンツェン・ガンボという偉大な王が樹立した吐藩という統一王朝があったのですが、滅んで以降、統一された国がないわけです。だから、ケサルに託しているのは強い国、統一王朝、それを物語に託しているのです。庶民の希望というか、ケサルを知ることによってチベットの人たちが連綿と紡いできた思いを知ることができるわけです。

――そうすると東チベットに限らず、チベットで広く語り継がれている物語ということなのでしょうか?

大谷氏 ダライ・ラマ14世はケサル大王伝について「チベット語圏の人々に希望と不屈の精神を与えてきた物語である」と高く評価しています。東チベットだけでなく自治区のチベットは言うまでもなくラダック、カシミール、パキスタンにパルティスタンというところがあるのですが、みんなケサルが入っているんですよ。モンゴルでも「ゲセルハーン物語」として自国の英雄伝として愛されています。

――広くチベット語圏に伝わる叙事詩なのですね。

大谷氏 映画では説明できませんでしたが、チベッ仏教には大きく分けて4つの流派があります。そのひとつ、一番古いニンマ派は吐藩時代、インドから招聘されチベットに仏教を広めたパトマサンバヴァ、尊称グル・リンポチェを開祖としています。ニンマ派の重要な寺である四川省ゾクチェン寺はケサル大王こそ開祖の世俗的な姿と崇めます。寺は「ケサル大王伝」を編纂してきただけでなく、仮面舞踏も創作し、ケサル大王と深くかかわってきました。東チベットの人々がケサル大王を本来の英雄叙事詩の「戦の英雄」から「慈悲の英雄」と崇めるのはニンマ派、とくにゾクチェン寺の影響が強いのです。あえていえば、今、東チベットではケサル大王を「伝説の戦の英雄」として讃えることははばかられます。

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