中国の無形文化遺産となったチベット「ケサル大王伝」

東チベットは、中国化している「チベット」と言われる。2006年以来、継続的に東チベットで取材を行ってきた大谷氏の映像からは、日本のメディアからは伝わってこない「中国のチベット」の姿が映り込んでいる。

中国語ができないと就職できない

――ドキュメンタリー作品としては、「ケサル大王」とともに「天空の大巡礼を行く」という作品も公開されていますね。

大谷 東チベットにアムネマチンという巡礼の山があります。アムネマチンは同時にケサル大王の魂の山でもあるのです。12年に1回、丑年に大巡礼が行われるので、2014年に取材をしました。その映像記録を作品化したのが「天空の大巡礼を行く」です。ですから、ケサル大王の話ともつながっている内容です。

――この映像を見ると、聖山の巡礼路に高速道路が建設され、巡礼者は道を失い、行き交う大型トラックに追われる姿を見てびっくりしました。

大谷 この地のチベット人(アムドのゴロク族)はケサル大王の末裔と名乗り、勇猛果敢で知られ、かつて巡礼には馬に乗ってライフルを持参し、儀式にも槍が立ち並びました。今はこのような武器は一切所持を禁じられています。ケサルの魂の山として地元民は自然保護に努めてきました。近年まで車道もありませんでした。ところが金や銅、さらにレアメタルと地下資源が豊富なことが知られると、大規模な採掘が始まり、それを持ち出すために高速道路の建設が始まったのです。環境は破壊され、鉱物資源は漢人の手に渡ってしまうのです。東チベットはラサを中心とするチベット自治区と違い、もろに中国ですから良くも悪くも経済的な開発も盛んなわけです。ですから様々な面で漢化が進行しています。田舎の街に高層ビルが建設され、だれが住むの、というとやはり漢人が来ているのですね。

――中国化が進んでいるわけですね。

大谷 漢人が移住し、漢の経済圏に巻き込まれているわけです。就職するには中国語が必要ですからチベット人も中国語を学び、使うわけです。例えば、映画制作者は北京の映画学校で学び、企画を通し、上映するまで漢人相手に中国語を使わなければ映画制作はまず、不可能でしょう。また小説家も中国語で文学を書いて認められる。チベット人としてのアイデンティティが問われます。作品はその葛藤が隠喩ともなります。一方、中国化していく世界に入り切れない人たちは生活も苦しいし思う通りに行かない、そういう閉塞感も焼身自殺する理由にあります。

なぜ東チベットで100人を越えた焼身者が出たのか?

――チベット人の焼身自殺は大きな問題になっています。

大谷 とくに若い人たちの焼身抗議が多いことは胸が痛みます。これまでに焼身抗議をしたチベット人は140人を越え、100人を越える焼身抗議者が東チベットです。ダライ・ラマ法王への信仰が許されず、弾圧への抗議が最大の理由とされますが、もっと厳しい自治区で焼身抗議が少ないのです。『ケサル大王』でも取り上げましたが、町へ追い出す生態移民政策によって困窮し、追いつめられた元牧畜民たちが行った焼身抗議は、牧畜社会が主流である東チベット特有の理由として理解できます。また漢人社会と接触が多く、差別を日常的に受け、どこよりも閉塞感が強いのでしょう。それでも命を大切にし、生き抜いてチベットの未来に尽くすことを願います。

――映画にはダライ・ラマ14世の写真を掲げているシーンなどもありましたが、東チベットの現状はどうなんでしょうか?

大谷 映画『ケサル大王』は2010年から激しくなった焼身自殺の直前までの取材です。人々はあのシーンのように隠れながらも法王への崇拝を行っていました。北京五輪(2008年)前、チベット騒乱が起こり、胡錦濤前主席は強権的にチベット人を押さえ込みました。法王への忠誠を主張することも許されず、反発した僧侶たちが焼身自殺で抗議を始めました。しかし、2013年に国家主席に就任した習近平はオバマ米大統領と会談し、緩和策を採りました。ダライ・ラマ法王の写真もいっときですが公然と寺でも飾られました。チベット語教育廃止で女子高校生が焼身抗議をしましたが授業は復活しています。現在、焼身自殺はほぼ終焉し、東チベット全体から検問も消え、今は小康状態といっていいでしょう。でも昨年8月に入った大地震の被災地ジェクンド(玉樹)は6月に最後の焼身自殺があった町ですが、あちこちに公安警察がたち、銃を車上にのせた装甲車が巡回していました。

――東チベットの動向は、表面ではわからない中国当局の対チベットの姿勢を表している気がします。

大谷 中国政府はようやく強権弾圧は反発を買い、恨みを増幅し、騒動になることの悪循環に気づいたと思いたいですね。ウィグル、日本、米国などと対立し、国内でも様々な問題に手を焼く政権はせめてチベットは騒いでもらいたくないのが本心ではないでしょうか。ダライ・ラマ法王の存命が鍵になると思います。中国はチベットを奪うのではなく、何よりもチベット人を尊重する政策を行うべきです。バンダは四川省のチベット地域の動物です。でも、今や中国の動物です。実は中国政府はケサル大王伝を自国の世界無形文化遺産としてユネスコに申請し、2009年に認められているのです。ケサルもパンダと同じように中国の英雄とされかねません。また「中国はケサルを少数民族の文化保護政策の成果として利用し、宣伝している」という見方もあります。しかし中国の思惑がどうであれ、ダライ・ラマ法王が述べられたように、ケサルはチベット人のものであり、守護神なのです。それは10年間、東チベットでケサルを取材してきた者としての実感です。

――今後どのような取り組みをされていくのでしょうか?

大谷 もうそろそろケサルから解放されたいですね(笑)。でもここまで来たので納得するところまで行ければと思います。東チベットも市場経済、グローバルな世界に飲み込まれ始めました。そんな時だからこそ、ケサル大王伝という伝統文化は仏教とともにチベット民族の誇るべきアイデンティティの拠り所として重要な役割を果たすのではないでしょうか。特筆すべきことは今なお、神懸かり〜ある日突然語りだす〜語り部が存在していることです。彼らが中国語で話しだしたらシャレにもなりません。すでに2年前から取材を始めている『ケサル最後の語り部』を『ケサル大王』第二部としてまとめるのが念願です。仲間たちによる「ケサル大王伝」などの翻訳出版も期待し、いわば『古事記』と『源氏物語』を合わせたケサル世界を身近なものとし、日本人がチベットへの理解と関心をいっそう深めることになれば嬉しいことです。(終わり)


【大谷寿一・おおたにとしかず】東京都生まれ。ドキュメンタリー映像作家。1973年、日本映像記録センター入社。TV番組『すばらしい世界旅行』などでアフリカ各地を取材後、フリーディレクターとして『地球浪漫』『新世界紀行』『報道特集』(TBS)、『ハイビジョン・スペシャル』(NHK)などで「大地と人間」をテーマに制作。2006年より東チベットでの取材を開始し、2012年、自主製作ドキュメンタリー映画『チベット天空の英雄 ケサル大王』を作品化。2014年には『天空の大巡礼を行く』を完成。上映情報はサイト(http://www.gesar.jp/)にて。

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