異界富士~知られざる信仰の系譜~<1>

富士山は2013年に「信仰の対象と芸術の源泉」としてユネスコの世界文化遺産に登録された。筆者は2017年から2018年にかけてヤフーニュースに「富士山と宗教」のタイトルで富士山と宗教にまつわる様々な出来事を紹介したが、20回もの連載であったにもかかわらず紹介し切れなかったことが少なからずあり、やや消化不良の思いが残っている。そこで本サイトに改めて「異界富士~知られざる信仰の系譜~」として連載記事を掲載することにした。

≪第1章≫

いにしえの記憶

古富士火山の誕生は約10万年前にさかのぼる。そこは、北米プレートとユーラシアプレート、フィリピン海プレートという3つのプレートが交錯し、プレートが沈み込むことで出来た火山列の日本列島と伊豆小笠原諸島が扇の要のように結ばれている場所だ。「強い圧縮が働く場所なので、普通はマグマの地上への通り道はふさがれて大きな火山はできない。にもかかわらず、そこに大量のマグマが地下深部からのぼってきて、巨大な火山ができた」と静岡大学の小山真人教授は言う。10万年前に生まれた古富士火山は、噴火を繰り返して成長しながら、約1万年前に西側にもう一つの峰を形成した。それが新富士火山だ。古富士火山と新富士火山という東西に2つの峰をもつツインピークの山ができた。そして、今から2900年前、東側の古富士火山の峰が崩壊して現在の富士山になったと考えられている。火山学が専門の小山教授は、伊豆の火山や富士山を研究してきた。小山教授は富士山について「地球上の特異点」と指摘している。

静岡県三島市。JR東海道線三島駅の北口を降りると眼前に富士山が見える。北口のロータリーや新幹線の高架下などには表面に小さな穴のあいた黒茶の岩の塊があちこちにある。駅の南側には、約7万5000平方メートルの面積を有する公園「楽寿園」があるが、その公園にも表面に穴のあいた岩の塊がある。それら黒茶の岩の塊は約1万年前に「富士山」から流れてきた溶岩だ。この地域一帯は「三島溶岩流」と呼ばれる溶岩層の上にある。楽寿園は三島溶岩流の末端部分に当たるという。楽寿園の一角にひっそりと浅間神社が建っていた。三島溶岩流が止まった場所にあることから岩止浅間(いわどめせんげん)と呼ばれている。

JR三島駅前にある穴のあいた岩。太古に富士山から流れてきた溶岩だ=三島市

火山学を専門とする静岡大学の小山教授は、富士山の溶岩がどのように流れたのか研究してきた。小山教授によると溶岩の末端に神社のあることが多いという。富士宮市の市街地から富士山スカイラインへと至る県道180号線。その道路沿いに山宮浅間神社はある。車道沿いから山中へのびる参道を行くと籠屋(こもりや)と呼ばれる建物があり、籠屋を越えてさらに進むと玉垣で囲まれた南北12.5メートル、東西7.6メートルの長方形の空間が広がっている。目前に富士山がそびえている。一般的に神社には本殿があり、本殿に神様が祀られている。ところが、山宮浅間神社には本殿がない。昔、本殿がないのはおかしいと考えた村人が本殿を建てたところ、大風が吹いて倒されてしまったという言い伝えが残っている。本殿の代わりにあるのが、富士山を拝む遥拝所だ。玉垣で囲まれた長方形の遥拝所には、列になった石が配置されており、それらは祭壇の位置や祭祀を行う時の神官の位置を示しているという。山宮浅間神社は彼方から富士山を拝む神社なのだ。

富士山をのぞむ山宮浅間神社の遥拝所=富士宮市

山宮浅間神社のある場所を、国土交通省富士砂防事務所が作成した富士山の溶岩の流れを可視化した図に落とすと、山宮浅間神社が溶岩の末端に位置していることがわかる。富士宮市の市街地にある富士山本宮浅間大社。富士信仰の中心となっている神社で、境内には国の天然記念物の湧玉池(わくたまいけ)がある。湧玉池は富士山の地下水が湧いている池だ。小山教授は富士山本宮浅間大社も溶岩の末端に位置していると言う。「山宮浅間神社は約1500年前に流れた溶岩の末端に、富士山本宮浅間大社は約1万年前に流れた溶岩の末端に位置しています」。山宮浅間神社よりも富士山本宮浅間大社の溶岩層の方がはるかに古い。ところが、神社がつくられたのは山宮浅間神社の方が古く、富士山本宮浅間大社は山宮浅間神社から遷されたと考えられている。

富士山の過去の溶岩の流れを可視化した図(国土交通省富士砂防事務所作成)。山宮浅間神社(青丸)が溶岩の末端にあることがわかる

「富士山本宮浅間大社はもともと山足の地にあったと言われています。それが山宮に遷り、山宮からここに遷されたのです。山足がどこなのかは特定されていません」と富士山本宮浅間大社の禰宜(ねぎ)、小西英麿さんは話した。富士山本宮浅間大社に伝わる「富士本宮浅間社記」によれば、孝霊天皇の時代に富士山が噴火し、国中が荒れ果てたため、垂仁天皇の時代に山足の地で富士山を祀って鎮め、さらに景行天皇の時代に日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が山足の地から山宮の地に社を遷した。それが現在の山宮浅間神社だという。そして平城天皇の時代の大同元年(806年)に坂上田村麻呂が山宮から社を遷して壮大な社殿を営み、それが今日の富士山本宮浅間大社になったとされている。

つまり富士山本宮浅間大社の信仰は、富士山を鎮めることが目的だった。その背景には富士山の噴火で国が荒れたことがあった。垂仁天皇の時代に富士山が噴火し大きな被害が出たため、山足の地で富士山を祀り、その後、山足から山宮へ社を遷した。山宮に社を遷した理由は定かでないが、山宮の地が溶岩の末端にあることから推測すれば、山足はもっと富士山の近く、あるいは富士山中にあったのかもしれない。山足の社が噴火で溶岩に飲み込まれ、そのために溶岩の末端に新たに山宮浅間神社を営んだのかもしれない。

富士山の地下水が湧き出ている富士山本宮浅間大社の湧玉池=富士宮市

一方、山宮から現在の地に社を遷した際は壮大な社殿が営まれ、それが今日の富士山本宮浅間大社となった。山足から山宮に社を遷した時とはやや事情が異なるように思える。壮大な社殿を営んだその場所は、太古に流れた溶岩の末端で、富士山の地下水が湧き出ている湧玉池のある地だ。そこには富知神社があったとも言われている。富知神社は今日、富士宮市朝日町にある神社だ。富知神社と浅間神社の関係について富士宮市史は次のように記している。「浅間神社は、浅間の神という噴火の荒ぶる神をまつった。それは信州浅間山の暴火などを代表とする火の神である。朝廷ではこの神を奉斎して、神格化した位階を授けた。しかし一方では、岳麓で古くから祀ってきた富知神社があった。この神社の存在を認めながらも朝廷では、彼らの祈りに対応するだけの尊厳さを託して、浅間神社を建立したのである。その地が、富知神社の社地に属していた」(上巻289ページ)。

富士宮市の市街地に建つ富士山本宮浅間大社の鳥居

富士山の地下水が湧き出る場所は、砂漠のオアシスと同様、この地域にとってきわめて重要な場所であったに違いない。湧水に人々は集い、やがてムラができ、市場がたった。水が湧く場所と水をもたらす富士山は信仰の対象となって祀られた。一方で国を統治する為政者は噴火を鎮めるために山足、そして山宮に社をつくって富士山を祀った。富士山に対する地域信仰と国家信仰はそれぞれ独立して存在していたが、二つの信仰が一体化したのが大同元年(806年)、坂上田村麻呂による山宮からの遷社だったのではないか。それゆえに奉祝の意味を込めて壮大な社殿が営まれたと考えれば山宮からの遷社が盛大に行われたことの合点がいく。もし、そうならば、山宮からの遷社は、為政者による信仰が地域の土俗的な信仰と“一体化”した出来事だったと言える。

(フリーライター 三好達也)

【資料】

・ 山真人著「富士山 大自然への道案内」岩波新書

・「楽寿園の歴史 江戸時代から今日まで」三島市郷土資料館

・ 「富士山と宗教」(8) https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180301-00000017-wordleaf-soci

・ 「富士山と宗教」(9) https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180317-00000004-wordleaf-soci

・ 「富士宮市史」上巻 富士宮市史編纂委員会 昭和46年11月30日発行

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